やっぱりひとはたびびとなり

 

 いつも自分が定点になって風景を見て、ひさしぶりに昔住んでた町など歩きながら「変わっちゃたな―」とか「変わんないなー」とか思うのがあたりまえだと思っていました。  

 

                    

                                                                                         

 

 伊能忠敬のつくった地図はでっかい。日本列島全体だと体育館の床いっぱいくらいに広がる。といっても体育館によって広さに多少ちがいがあるかもしれない。わたしが見たのは、桜上水にある日大の体育館だった。

 だからいっぺんにさっと見渡すことはできない。人間チェスか巨大双六のコマになったつもりで地図の上をめぐってゆく。地名がたくさん書きこんであって、現代にも残る有名どころや行ったことのある地名がそのままあったりする。

 と、母の生まれ育った土地の名が、まさしく地図上のその位置、いまも「そこ」である位置に、そのままの名称で「○○村」と書かれてあった。いまは村ではなく、町という呼称もつかないが、同じ位置に同じ固有名詞がある。

 昔はよく知っていて、ひんぱんに会っていた人を、久しぶりにパブリックな場面で見かけたときのような、懐かしさの混じった驚き。

  ああ、わたしが確かに知っているあの土地、母が今も生活するあの土地は、伊能忠敬の時代に、すでに同じ名をもち同じ場所にあったのか。伊能忠敬が測量した 瞬間には、まったく見知らぬ人たちがそこには暮らしていて、今、そのころの人たちはひとりも生きてそこにはいないのか。

 ことばにするとあたりまえ過ぎて、あまりに淡白。

 同じ土地に、ある量を越えた時間が経過すれば、総入れ替えのようにまったくちがう人間ばかりが日常を暮らす。「そのあたりまえな事実」が、ものすごくありありと迫ってきて、頭の中にずしんと落ちた。

  体育館の天井から、ちいさなちいさな人間が、つーっと降りて来て、ある場所に着地したかと思うと、すぐにまた、つーっと上にのぼって消えてゆく。それが次 から次へと繰り返されてゆく。流星みたいなものがどんどん落ちてきては、ぱっと砕けちゃうみたいな。そんな映像が見えた。

  いつも自分が定点になって風景を見て、ひさしぶりに昔住んでた町など歩きながら「変わっちゃたな―」とか「変わんないなー」とか思うのがあたりまえだと 思っていたのだ。土地を定点に観測すれば、様相は変われどその土地は連綿とそこに在り続けていて、人間ひとりひとりは、瞬間、そこに降り立ち、ほどなく 去ってゆくにすぎないのに。

 「月日は百代の過客」と芭蕉は書いたが、ひとこそが過客、「旅をすみか」とするまでもなく。