瞽女んぼさの三味唄につれられて/橋本照嵩写真展「瞽女(ごぜ)」

 

 

 どの写真もシャッターが押されたのは40年ほど前だ。その日その瞬間の光と影が、新たに印画紙に焼かれ時間を超えてここにある。

 瞽女さんが着ているきものやもんぺの、たぶん藍染めの絣模様、越後の早春の山なみ、田んぼに映る山影、板壁の木目、それを掠める雪の軌跡、光る積雪、かしいだ茅葺きのお堂、道端の子どもたち、村の人が働いていたり笑っていたり。

 まぶしいほどの白から漆黒まで、モノクロの粒子の階調は限りなくなめらかだ。視線だけではなく呼吸ごと脈拍ごと写真のなかへ誘われるようで、ゆったりといい気もちになる。

 瞽女さんは、盲目の女旅芸人で、三味線を弾きながらものがたりを語る。江戸時代には日本のいたるところで旅姿が見られたという。明治を経て、少しずつその姿は減り、昭和50年代には瞽女という職業そのものが消えた。いまも瞽女さんの唄や語りを「瞽女うた」として継承している方は何人かいらっしゃるが、その方たちは「瞽女」ではない。

 

 橋本照嵩さんは、1969年(昭和44)の暮れから1973年の秋まで、瞽女さんと旅をしその姿をカメラにおさめた。

 1971年の秋からおっかけはじめた瞽女さんとのエピソードをギャラリーで話してくださった。

 そのころ、高田と長岡に瞽女さんはまだ居たけど、旅を続けている人はほとんどいなくて、アマチュアのカメラマンとかね、自分の撮りたい風景の場所へ瞽女さんを連れて行って、いわゆる「やらせ」みたいな写真を撮ってたり。でもそれが瞽女さんの収入になるからね。そのうち、現役で旅を続ける瞽女さんがいるってきいて、飛んでいったの。

 でも、「写真のう、撮ってもろうても、おらたち目が見えねえすけ。」「もうこんでもいいんだが」とはじめのうちは言われて。瞽女は女ばかりで旅するもんだから男はだめだとかね、なかなかいっしょに歩くことを承知してくれない。旅をしている瞽女さんが、いったいいつ、どこの村、町、を歩いているか、その情報を得るのも簡単じゃないから、実家など、いろんなつてに電話してみて、「いるらしい」という情報を得たらそこへ飛んでいく。うまくいけば会うことができた。「はい、さいなら」と別れ際はそっけない。それでも次の行き先を訊くと、「四月の一日か二日は、○○でねえか、因縁があったら会われるんでねえか」と、それくらいの返事はもらえた。

 

 その頃30代だった橋本さんは、東京で写真雑誌の仕事をしながら、仕事の合間を縫って越後へ通った。ひたすら瞽女さんを追いかけて。

 瞽女さんはたいてい、三人ひと組で旅をする。先頭を歩く人は「手引き」と言って目が見える人。その人の背に片手をあて、もう一方の手に杖を持ち、三味線を背負った瞽女さんが続く。まん中の瞽女さんの背に同じように片手をあてて、もうひとり、瞽女さんが続く。そうやって村や町を「さわがし」に行く旅をする。瞽女さんが三味線を弾きながら歌い語るものがたりを聴くのは、集落の人たちの大きな楽しみだった。行き先の集落では、ゆとりのある家が「瞽女宿」として瞽女さんたちを泊めていた。

 橋本さんの写真にも田畑のほとりを歩く三人の旅姿が写っている。先頭で「手引き」をする目の見えるハナさんは芸はしない。二人の瞽女さんの道案内、先導が仕事だ。ハナさんが一軒の家の前に二人を導く。「門付け」と言って、玄関先で三味線を弾いて門付け唄をうたう。「来ましたよ」というサインだ。唄を聞いた家の人が出て来て、瞽女さんに米やお金を渡す。そうやって集めた米やお金は一部を瞽女宿に宿泊の礼として渡し、残りが稼ぎになる。また、瞽女さんの集めた米には特別な力が宿り、精がついて子どもが健やかに育つとして、村の人たちに喜ばれた。橋本さんがいっしょに旅をして「さわがした」村や町の人たちは、瞽女さんのことを親しみをこめて「瞽女んぼさ」と呼んでいた。

 

 橋本さんが「写真は撮らんでもいい」と言われながら三人にくっついていた時期のある日、門付けをしても家の人がでてこない。ハナさんは「あれ、いねえなあ」と、唄がはじまってしばらく経ってからやっと気づいて言うので、三味線も唄も途中でやめて次の家に行く。するとそこもまた留守である。ハナさんは毎回、途中で気づいて「いねえなあ」と言うだけ。「自分の年の数も知らない、銭このかんじょうもできない」ハナさんに状況打開の機転はきかない。橋本さんはふと思い立ち、裏に回ると家の人がいる。「瞽女さんが来てますので、お米かお金か、お願いします」と伝える。また次の家でも、その次も、と同じことが何度か続いた。ついに「ハシモトさんがいっしょだと、カラ振りがなくて百発百中だ」と瞽女さんが感心するにいたり、旅に加わることが承諾されたそうだ。

 行く先々の村や町で、三人連れの後ろをカメラや荷物を背負って歩く橋本さんを「押し売りかい」と訊かれたこともあった。そのうち「おらたちの男手引きだ」と三人が言うようになった。「瞽女んぼさが男といっしょに旅する時代になった」とからかわれながら、橋本さんは、東京と越後をなんどもなんども行き来して、いっしょに旅を続け、写真を撮ったのだ。

 

 会場に「瞽女」と題した写真集が置いてあった。1974年出版。この写真集で橋本さんは写真協会の新人賞を受賞した。

 1977年、橋本さんといっしょに旅をした瞽女さんは、もうこれきり旅はやめ施設に入るからと、お世話になった集落へのあいさつまわりとして「ジンギ」の旅に出た。このとき自分たちが写っている橋本さんの写真集を持って旅をし、行く先々で評判になった。

 

 今は絶版の1974年版の写真集は、会場の写真とはずいぶん違う印象でコントラストが強い。一枚一枚の画面にどこかしら劇的な空気が漂う。晴れ空も、今にも何か起こりそうでただならぬ感じがある。

 微妙な階調を敢えて消して主題以外の情報を減らし、強さを出す。それが当時の橋本さんにとっての写真表現、もしかすると、若かったがための拘りかもしれないけどそうしたかった、そして、印刷のインキも黒に赤を少し混ぜ、よりねっとりとした重たい黒を目指した。

 2013年のシルバーゼラチンプリントは、なめらかなモノクロの階調が、瞽女さんや農村風景をおだやかに写し出している。晴れ空も文字通りはればれとしてすがすがしい。

 いまはそれでいい、と感じて、橋本さんが新たに焼いた写真。40年前に現像するとき、消そう減らそうとした情報、あたりまえにあると見ていた光景や風景が、今はもうほとんど実在しない。

 瞽女さんも、もうどこにもいない。