可憐で働きものの伸子さん

 

 

 「伸子」と書いて、シンシと読む。ノブコさんではありません。

 きょうはこの伸子という名の可憐な道具が、藍染め作業においていかに活躍するかについてのお話です。

 紺屋さんの土間に埋まっている藍甕は、口径が60センチ、深さも1メートル程度の大きさ。野口紺屋では、この甕で長さ13メートルの反物を染めている。

 絞り染めなら糸で括った分だけ布全体が縮むため、かなり大きな布でも藍甕にじゅうぶん入るが、型染めはそうはいかない。長さ13メートルの反物をじゃばら状に折りたたんで口径60センチの甕に入れるのだ。

 たたむといっても、両面に糊で繊細な文様が置かれているわけで、布と布の表面が接触すれば文様は崩れてしまう。しかも液体の中に入れるのだから糊はますます剥がれやすくなる。布面同士が接触しないよう、適当な空間を保ってじゃばらにしてゆかなければならない。布面同士がくっつかない、この絶妙な空間を保ちながら布をたたむのが「伸子」の役目なのです。

 伸子は両端に針のついた竹ひごのようなもので、反物の長手の片側だけに付ける。まず片方の針を刺し、竹ひご部分がアーチを描くように曲げながら、間隔を置いてもう片方の針を刺す。1本の伸子の長さは40センチ程度。13メートル反物には20本の伸子をかける。そう、伸子は「かける」と言う。伸子の描くアーチは、かわうそ的にはサインorコサインカーブと言えばよいか。何気なく刺してあるように見えるけど、全体が均等にたたまれるよう、適切な間隔を測らなければならない。

 さて、じゃばらになった反物を藍甕に出し入れするとき、伸子は取手の役を担うのだが、ただ持ってればいいわけではなく、扱いに経験が要る。

 布と布のあいだに染液がまんべんなくまわるよう、藍甕に浸したまま伸子を持って布のあいだを開いてゆく。甕から引きあげれば即、酸化が始まるので、藍甕の上で、やはり布と布のあいだに均等に空気が通るようにすばやくていねいに伸子を動かし布面を広げる。竹竿に持ってゆき、さらによく空気に触れるよう布面を広げて干す。このとき伸子はハンガーとなる。これら一連の作業を繰り返すことで、深く安定した藍色が得られる。

 濃い藍色の甕の中に伸子をかけられた布が浸っている。そのしんとしたたたずまいに見とれる。竹ひごの両端に針がついただけのシンプルな、細く可憐なこの道具だけで、13メートルの布が60センチの口径の甕に収まる。仰々しさもおおげさな細工もぜんぜんない。そこに感心するのだ。繊細な文様を描く糊は水溶性だというのに、それが崩れることなく染めあがる。

 

 「おやじさんが生きてるときは、伸子もかけさせてもらえなかったよ」と野口さんが言う。

 「えっ!」

 「やらせてもらえたのは、最後の最後に布を甕からあげて、棹に干すときだけ。それも最後の浸染が終わったときだけ。途中の作業はいっさいさせてもらえなかった。」

 「甕からあがった布の伸子をさばくとき、腕全体を使って、こうやって大きく動かすんだよって、教わったのはおじいさんから。」

 野口さんのお父さん、先代の謹一郎さんは、たいへんな芸術家肌の方で、極端に言えば、染め以外は何もしないような人だったそうだ。朝早くからひとり黙々と仕事をし、午後には外出してギャンブルのようなことをして過ごす。

 「それだけ緊張して仕事をしてたんだね。そういうことでもしないと緊張がとけなかったんだ。」と、野口さんは言う。

 本来、野口紺屋は染め専門だった。型付けはそれだけで専門の職業としてあって、紺屋は型付けした布をあずかって染めていた。そういう分業が成り立たない時代になり、今の野口さんからは、紺屋一軒で型付けと染めをやるようになった。野口さんが(ほかに型付けの職人さんのいた時期もあったが)型付けをし、お父さんが染める、という体制だった。

 「甕の上はおやじさんの管理下だったからね。だれにも手出しはさせなかった。」野口さんは半纏の染めはしていたが、浴衣の反物の染めは、最後の最後の行程を手伝うだけだった。

 先代が病に倒れられたとき、はじめて全部の作業を野口さんがやるようになった。

 「すぐできたんですか?」

 「できたっていうか、やったんだね。」さらっと野口さんは言う。

 わたしはといえば、伸子のかかったせいぜい2メートル、3メートルの長さの手ぬぐい地を、糊が落ちないよう扱うのに、まだまだせいいっぱいなのだ。毎回、興味津々の野口さんの話を聴きながら、手がおろそかにならぬよう、耳も目も手も感覚全開で作業している。

 

 付記 伸子は、引き染めや呉入れ(藍の定着をよくするため大豆の汁で下染めすること)のとき、布面に張りをもたせるためにも使います。このときは、長手ではなく反物の幅がわに伸子を取り付けます。また、伸子にはいくつか種類があり、使用目的や、布の性質によって使い分けます。