感触のぜいたく、あるいは愛すべきモノ

 長く木版画を中心に制作活動をしてきたのだが、数年前、自由に藍染をさせてくれるという紺屋さんの存在を知り、古いシャツを染めに行ってたちまち藍染の虜になった。野口藍染工場は工場という名前ではあるけれど、江戸時代から続く紺屋で、今は六代目親方の野口汎さんと修行中の息子さんが二人だけで、「長板中形」という型染めの浴衣地を染めている。

 木版を彫ってきた経験からごく自然に、染めの型紙を彫ってみたいという衝動にかられた。さっそく渋紙という型紙を染色材料店に買いに行き、デザインナイフで彫ってみる。

 白い布に型を置き、糊をペーストし、藍甕で染める。糊を水で洗う。透明な水の中でゆらゆらと揺れながら浮かび上がってきた白地の文様とそれをふちどる藍の輪郭の生むニュアンスは、うまく言えないけれど、「ああこれだ」と、じぶんがずっと探してきたものに近づいたような、宝物を見つけたような感覚をわたしにもたらした。

 それからは、ただ夢中で楽しくて型を彫っては染めていた。薬品が苦手なので、和紙と柿渋で作られた渋紙も、もち米や米ぬかから作る糊も、藍甕に浸すだけで染まる藍という染料も、性に合っているのか、のびのびと作業できる。版木を彫る時間より渋紙を彫る時間のほうが増えて行った。

 そんな日々を過ごしていたときに「藍染めでiPadケース作ったら。その名も藍Pad」と、文字通りダジャレから発案がなされたのだった。iPadがいかなるモノであるかまったく知らなかった。なにやら画期的なPCなのだそうだが、そのためになんでわざわざケースがいるのかピンと来ない。けれどケイタイにせよ、PCにせよ、機器本体が生まれたら、人はそれに着せるケースを欲しがるものだと言う。硬質でひんやりとした感触の、最先端を行くという機器たちに、まったくの天然素材、しかもどこか古風なイメージの藍布を着せてみたらどうだろう。その組み合わせに興味が湧いた。家でもマウスパッドに藍布をかぶせて使っていて、剥き出しのマウスパッドより木綿の感触がはるかに心地いい経験も後押しした。

 さっそく手持ちの布で試作を始め、ダジャレから湧いた企画を実体化するための試行錯誤の日々が続く。このあたりは、雑誌「make」の藍Pad誕生物語に詳しいのでとりあえず割愛。ここではiPadをはじめとするいわゆるIT機器をつつむ藍染布の魅力、藍染への愛!について書き散らしたいと思う。

 まずは藍という色が放射している効果。目に入ってくる色は周波数を持っていて、いつのまにかわたしたちの神経を逆なでしたり静めたりしている。赤が興奮を呼ぶのとは逆に青は沈静作用を持つ。

 また手仕事で染められた布が持つ微妙な色ムラ。ただひたすら均一さを追求して施された色よりも、かすかに色の変化を隠している藍染めは、目にほどよい刺激を与えてくれる。色彩のゆらぎとでも言えばいいのだろうか。じっと見詰めていても脳が決して飽きない、疲れない。薬品でまったく色止めをしないゆえに少しずつ色落ちもするけれど、持ち主の扱い方の影響も大きいくわけで、つまり、経年変化は時間と持ち主がともに加えていく「仕上げ」のようなものだ。

 そして木綿という生地の持つ感触。手のひらがふと、けれどひんぱんに触れる日常の道具は、わたしたちの肉体に長く深い影響を与える。固くて冷たいものに長時間触れ続けるより、心地よい温度と感触を持つものに触れていたほうが疲れ方ははるかに少ない。衣服にせよ、靴にせよ、寝具にせよ、そうではないか。

 たとえば高額なブランド品の魅力はどこにあるのだろう。それはステイタスを証明する小道具でしかないのだろうか? そんな矮小な役割しか果たさないモノもあるかもしれないが、デザインの美しさや質感の生む心地よさ、使い勝手がいいことによる快適さをもたらすモノもある。わたしたちの肉体はそういった快感に敏感に反応している。名の通ったブランド品に限らず、疲れない靴、座り心地のいい椅子、さらにカーテンや照明の色など、モノを選ぶとき、わたしたちは自分にとって心地いいモノを欲する。毎回、それに出会えるかどうかは別として。

 そう。いたずらにモノを欲しがる病があることを認める一方で、自分にとって心地いいモノたちが、退屈で平板に陥りそうな日常生活に愛を添えていることも確かなのだ。

 そういうわけで、藍Padをはじめとする、藍布で作る身の回りの品々が、だれかの日常に愛を添えてくれるモノであってほしいと願って、そしてその可能性がじゅうぶんにあると信じて、試行錯誤しつつ、彫ったり染めたり縫ったりしている。