「また戻ってくるかもしれない」

 2012年2月22日。藍染めのシャツを注文してくださった「おもしろ学校」主催の名取さんといっしょに八王子野口紺屋へ行く。1月に糊置きや染めに通った時期はほんとうに底冷えする寒さだったが、この日はずいぶん寒さもやわらいでいた。名取さんは山梨のご出身で、父方の本家が「紺屋(こうや)」という屋号を持っていたそうだ。そんな話を名取さん、野口さんとしながらのんびりシャツを染める。藍染めをするときは、もちろん、てきぱきと動くことはたいせつなのだが、決して焦らず、あわてず、どこかのんびりかまえておくほうがいいのです。
 名取さんの話を受けて野口さんが、「紺屋はね、昔はどこにでもあった、村にも町にも。今、クリーニング屋とかコンビニとか、どこにでもあるように、どこにでもあったんですよ」とおっしゃる。「でも、要らなくなっちゃったんだね。世間では要らなくなっちゃった商売なんですよ。」
 だけど、そのあと、続けてこう言われた。
 「でもね、これからの時代はね。またこういう商売が、こういうやり方が、必要になってくるんじゃないかなあ。」
 野口さんは以前、六代目である自分の代で野口紺屋をたたもうとされていた。息子さんには大学卒業後会社勤めをさせ、紺屋を継ぐことを許さなかった。けれど、息子さんの強い意志で、十年ほど前、七代目として修行をすることが許された。
 野口紺屋は江戸時代から続く紺屋さんである。もともと、武士の身につける裃を染めていた。明治になって裃は用が無くなり、裃に用いる小紋柄を転用して「浴衣」の長板中形を染めるようになった。中形というのは型紙の呼称で、江戸小紋よりもやや大柄の型という意味(大形というのは半纏などの型を言う)。長板は、反物生地を糊置きするときに使う幅約50センチ、長さ約6メートルの細長い板のことを指す。
 江戸時代からずっと日本橋に仕事場があったが、関東大震災後、八王子に移った。震災があったから八王子に移ったのではなく、八王子に移ろうと準備をし、土地なども手に入れていたちょうどその時、関東大震災が起きたのだそうだ。今まで残ってきている条件として、代々の親方たちが努力をされてきたことはもちろんだと思うけれど、歴史的偶然も大きく左右しているように思う。まさに、残るべくして残ったとはこういう偶然の積み重ねを言うのではなかろうか。
 七代目和彦さんの糊置きの仕事を名取さんと見学しながら、野口紺屋の歴史についてそんな話をしたあと、染め場で野口さんと先の話になったのだった。一時は、紺屋という商売は(そして同様の多くの手仕事が)、時代遅れだという理由で駆逐されて来た。でも、まだすっかり無くなったわけではなく、まったく用無しになったわけでもない。無くなりそうになりながら辛うじて残っているそれら伝統的手仕事のやり方、そこに蓄積された知恵をわたしたちはいま必要としている。それらの知恵がわたしたちに多くの希望とヒントを与えてくれる。
 駆逐され、冷遇された時期に、紺屋の仕事を続けて来られた野口さんが「また必要とされるときが戻ってくるんじゃないか」と言われた。わたしが野口さんのところに通ってまる4年が経ったが、そんな言葉を聞いたのは初めてだった。