四天王寺という場所 その2/3月18日のスケッチ

 「四天王寺夕陽が丘」という地下鉄谷町線の駅で降りる。地名が表わすごとく今も夕陽の名所らしい。四天王寺の西門(さいもん)からは、春秋の彼岸の日、まっすぐに日没が見える。湾が近くまで迫っていた地形の時代は夕日は海に落ちた。

                                                 

  朝から雨が降って肌寒いのにずいぶんの人出で、ちょうどお彼岸にあたっていたことに気づく。境内に向かう沿道のあちこちに「経木(きょうぎ)記入所」とい う看板が出ている。一瞬、ラーメン屋さんか何かの臨時テーブルかと思ったのだ。長机にビニールの円椅子、机の上の筒には白木がさしてあり遠目に割りばしに 見えたから。でもあれが経木なんだ。一枚20円と書いてある。洋品屋さんの軒先だったり、商店と商店のあいだの路地だったり、また境内のあちこちにも「経 木記入所」は設けてあって、三々五々、記入している人たちがいる。経木は幅10センチ長さ25センチくらいの紙のような薄い板。お堂で回向してもらうため に亡くなった人の名まえを書く。

 境内に入った。「英霊堂」や「太子堂」と名づけられたお堂に立ち寄るたび、家族連れが順 番にお経をあげてもらっている。お経が終わると「○○さ~ん、○○さ~ん」とお坊さんに高らかに名まえを呼ばれ経木を受け取る。鐘堂には人が並び、つぎつ ぎ鐘をついてゆく。まるで大晦日のような賑やかさ。線香の煙と読経の声と露店と人の波。境内に立ち並ぶ寺院建築のすぐ脇に露店がひろがり、洗剤や日用品、 肌色の下着まで並べられ売らているのを見て、イスタンブールを思い出した。「高野槇」という青木の束は何に使うのだろう。甘酒を飲んだら「ひゃくまんえ ん」で、ストッキングが吊るされ「作り立て」なんて書いてある。京都や奈良のお寺とはちがうし、浅草ともちょっとちがう。

               

 「お大師さん」と「お太子さん」の縁日にはのぼることができる五重塔が、彼岸だというので開放されていて、頂上までのぼることができた。日本の寺院で塔の 頂上にのぼるのは初めてだ。昭和に再建されただけあって、鉄製のらせん階段だったが、細くて狭いその階段をのぼり、人が一人立てる幅しかないような、軒の 低い小さな回廊から、境内と周辺のビル群を俯瞰する。五重の塔のある中心伽藍には人影が少ない。伽藍の外側の境内ばかりが露店と人波で賑わっている。この 伽藍は昭和に再建されたものだが、「四天王寺式」と名づけられた伽藍配置で、日本における初期の寺院建築として教科書に載っていた記憶がある。

 大阪出身の人に大阪でどこに行ったらいいでしょうと尋ねても、「四天王寺」という答えは皆無だった。もし四天王寺の建物が焼失せずせめて一棟でも創建当時 のまま残っていれば、いまごろ観光名所だったかもしれない。法隆寺と同じく、聖徳太子ゆかりの、日本における仏教黎明期の寺院なのだから。それはさておき、今日の四天王寺には、亡くなった親しい人の回向と現世利益を祈るためにこれだけたくさんの人たちが来ているのだ。最古の寺院建築様式を見学するためにではなく。今の生活に密着し、地域の人々に慕われている寺院。。。これも聖徳太子のパワーかなあ。。。

 金堂に祀られている本尊は、「半跏思惟」の救世観音。礼讃堂というひときわ大きなお堂の前には、石舞台という方形の大きな石製の演台があり、聖霊会(聖徳 太子の命日4月22日)に雅楽が奉納される。石舞台は池にまたがって据えられ、池には亀ばかりが泳いでいたり、池のほとりの栴檀の大木がちいさな円い実を いっぱいにつけていたり、どことなくエキゾチックな風景がおもしろい。境内の東北に位置する本坊には、二代将軍徳川秀忠が再建した五智光院など京都並みに 古い木造建築も残っていたが、ここもこの日は人影がまばらだった。

 というわけで、四天王寺はなかなか見ごたえのある場所で、半日近くを過ごしたのだった。天王寺は「四」が略された地名で、天王寺の大きな駅から歩いても、にぎやかな商店街を抜けるうち四天王寺にほどなく着く。