「銀河鉄道の夜」メモ/去ったもの帰るもの

 koboという電子書籍を読むためのタブレット端末を貰ったら、青空文庫として「銀河鉄道の夜」が入っていた。折しも小諸まで山猫叔父さんの原画展の搬入を手伝いに行き、「銀河鉄道の夜」の原画を物語順に並べる、という作業をしてきたばかりだったので、敏也さんの絵を思い浮かべながら、ひさしぶりに始めから終わりまで一気に読んだ。(それにしても敏也さんの描く画面は、どれほど賢治の文章に忠実であることか、それを改めて噛みしめながら読んだのだ。)

 

 「銀河鉄道の夜」はどの場面も青く翳りを帯びている。そしてときに漆黒の闇になる。なんだか冷たいようなしんとした空間に、忽然といろとりどりのさまざまな幾何学形の信号標が浮かび、銀のすすきの穂がなびき、ガラスのコップのようなりんどうの花が回転する。やがてふしぎな乗客が乗ってきて、鷺や雁がぽきんと折れるほど薄くひらべったくなって箱のなかに重ねられていたり、剥いてゆくその端から空間に溶けて消えてゆくりんごの皮、「いまこそわたれわたり鳥。いまこそわたれわたり鳥」と叫ぶ信号手の合図、うっとりと惹きこまれる車窓風景とエピソードが散りばめられ、気まぐれに拾い読みしてそれぞれの描写を瞬間にあじわうだけでもじゅうぶんで、全体を通して一気に読むということはあまりしていなかったと気づく。

 

 「ほんたうの幸福」ということばが何度も出てくるのだけれど、それは極めて抽象的な表現というか、アナロジーで置き換えられない言葉として動かし難く何度も出て来て、魔術師みたいに具象的描写力にすぐれた賢治をもってして、「ほんたうの幸福」としか書かせえなかったのは、やはりいったいどうすれば「そこ」へ近づけるのか、賢治にもまだはっきりと具体的に示すことができなかったからだと思うし、だからこそ、その願いはリアルで切実で真摯なものだったのだと思う。「ほんとうの幸福」としか書き得ない、その言葉がなんだか胸に重い。

 

 ジョバンニの持っている切符は、いまジョバンニとカンパネルラが乗っている「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」に乗れるどころか、「ほんたうの天上へさへ行ける切符」「どこでも勝手に歩ける交通券」だという。

 おそらく、賢治はこの「幻想第四次の銀河鉄道」にしょっちゅう乗っていたのだろうけれど、ジョバンニがカンパネルラと離れて地上に戻るように、賢治は、銀河鉄道に乗り続けていたい誘惑を断ち切って、地上に戻ってくることを常に選んだ人なのだ。そして地上で「ほんたうの幸福」を具現化するためになにをすればいいのかを考え、行動し、挫折し、という繰り返しを生きた人なのだ。

 

 (さて、詩でも小説でも人の話でも、同じものを読んだり聞いたりするそのたびに、そのときどきに自分が受け取った、ある程度なにかわかった、と思うこと、感じることはずれていく。)

 今回読んでみて、今までで初めて、カンパネルラはほんとうに死んでしまったのだろうか、とふと疑った。そこからつらつらと考えがふくらんでいったので、それをここにメモしておきます。

 カンパネルラが死んだ、という物的証拠はない。カンパネルラのお父さんが「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから」ときっぱり言うけれども、カンパネルラの水死体が見つかったわけではない。

 さらに、カンパネルラが溺死したと諦めることを決定したその時点で、現場に駆けつけたジョバンニに、カンパネルラのお父さんは「あなたのお父さんはもう帰ってゐますか。今日あたりもう着くころなんだが。」と告げるのだが、それも予言であって、ジョバンニのお父さんが帰ってきた、という確認は物語の現実の中ではされぬままに終わる。

 カンパネルラの消失とジョバンニの父親の再帰はセットになっているみたいだ。しかも両者とも、カンパネルラの父親のことばによってそれが保障されているに過ぎないことも共通している。カンパネルラの父親とジョバンニの父親は、ちょうどカンパネルラとジョバンニのようにこどものじぶんから友達だったと、物語の冒頭でジョバンニの母親がジョバンニに言う。(だから、ジョバンニに知らされていない帰港の情報をカンパネルラの父親は手紙によって知っていたのだ。)

 ジョバンニとカンパネルラ。ジョバンニの父親とカンパネルラの父親。物語の始まりでは、親の世代で片方(ジョバンニの父親)が行方不明であり、子の世代の片方(カンパネルラ)が行方不明(遺体はあがらないので)になるのとまるで引き換えのようにジョバンニの父親は帰ってくるだろうと予知され、物語は終わる。

 

 父親が不在で貧しく、同級生から離れて孤独の中に生活するジョバンニは、自分の居るべき「共同体」から少し距離を置いた位置にいる。父親が不在で母親が病気で姉は離れて暮らしているから、ジョバンニの家族はもとの形を失っている。学校では同級生に溶け込めず、活版所でも大人にからかわれながら寡黙にひとり働いている。所属すべき、溶け込むべき共同体を持たないジョバンニにとって、カンパネルラだけが自分と同じ感受性を持っていると感ぜられ、「どこまでもいっしょにいきたい」と願う存在なのだ。

 そのカンパネルラがジョバンニから去ったとき、ジョバンニの父親が帰ることが予言され、クラスの「みなさんといっしょに」カンパネルラの家に招かれる。「たったひとり」と思いつめていた同伴者から離れたとき、ジョバンニには共同体のなかへ復帰する「しるべ」が示される。

 

 自分と、「たったもひとつのたましい」(小岩井農場パート9)と、ふたりきりでどこまでもどこまでも行くことに、賢治は強く惹かれ憧れ、そして苦しみながらそれを最終的に常に否定した。たとえば「小岩井農場」詩群、たとえば「風景とオルゴール」詩群。狂おしい恋愛に酷似したその欲望に、賢治は激しく憧れながら、強い意志の力をふりしぼってそれを否定した。「ほんたうの幸福」は、「たったもひとつのたましい」とふたりだけでどこまでも行くことでは求め得られないということを、賢治はくりかえし詩にする。

 「銀河鉄道の夜」も、やはり「たったもひとつのたましい」としてのカンパネルラの存在を消し、ジョバンニが「共同体」の中へもどって「ほんたうの幸福」を模索する者として生きることを選ばせる。「ほんたうの天上にさへ行ける切符」を賢治がジョバンニに託した意味はそこにあるのではないか。

     
     

              

 「ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊るした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のやうなところを指しながら、みんなに問をかけました。

 と、始まる「銀河鉄道の夜」。小林敏也画本宮澤賢治の原画を全作展示中。詳細は→