画本/宮澤賢治「やまなし」

 ここに映し出されるふたつの幻燈は、わたしたちの日常にふと滑り込み、肥大した日常の膜を削ぎ、切り裂き、その間隙に生じる場面です。それはだれにでも訪れ、だれでも見たり感じたりします。ときどきしかそれを見ない人もいますし、ひんぱんに感じる人もいます。

 クラムボンが笑う理由も、殺された理由も、永遠にだれにもわかりません。お魚が行った「こわいところ」がどこなのか、永遠にだれにもわかりません。でも、蟹のおとうさんが言うように「だいじょうぶ」なのです。なぜ「だいじょうぶ」なのかって? それを説明する言葉を探すのはしばしやめて、たとえば、蟹の子の棲む川面をぼんやりながめてください。今が五月なら、新緑のそよぐ木々を、その木漏れ陽を。そしてかすかな葉ずれの音を聴いてください。

 いいにおいのやまなしがふいに天から落ちてきます。それは、待っていても、待っていなくても、あるとき、ふいに落ちてきます。落ちてきたときはついて行ってみましょう。いい匂いにさそわれるままついてゆきましょう。そしてひとりでにお酒になるのを待ちましょう。

 小林さんの画本「やまなし」は、賢治の「青い幻燈」ということばのとおり、すべてのページが青く、ほのかに暗く、すきとおった水底の写真のよう。

 この水底の景色を描くために、小林さんは川底に鏡を置いて、川面を流れてゆく「つぶつぶの泡」が実際にどう見えるか調べたそうです。「平べったくつぶれてるかもしれない。半球が浮いてるのかもしれない。そうしたら、泡って球体なんだ。その泡に陽が当たるとどうなるか、その影が川底にどう映るか、観察したんだよ。」

 「やまなし」の原画は、石膏ボードに墨やインキを塗りニードルでひっかくスクラッチという技法で描かれています。その白黒の原画から印刷用の版を起こし、色インキで刷り、絵本に仕立てられました。ページに指を置けば、ひんやりと涼しい水に触れた気がします。